更新日:2020年12月23日
■大火の記録展示(解説バナー)
→展示品の解説は こちら
→駅北大火記録映像はこちら(YouTube糸魚川チャンネルへのリンク)
おとな向け/https://www.youtube.com/watch?v=Rcso36TJs-k&t=119s
子ども向け/https://www.youtube.com/watch?v=n3n2Xms4eWw
概要(心に強く刻み、記憶する)
大町1丁目のラーメン店から出火した火災は、フェーン現象を伴う強い南風にあおられ次々に“飛び火”が発生し、国内では1976(昭和51)年9月の山形県酒田市における大火以来、40年ぶりとなる大規模な市街地火災となりました。
強風にあおられた火災は旧街道の風情豊かな本町通りを包み込み、巨大な炎が消防隊に迫りました。
3階建ての建物の高さをはるかに超える火柱。消防隊の消火作業は困難を極めました。
火災の様子を不安そうに見つめる大勢の市民。水利の不足を補うため、コンクリートミキサー車も投入されました。
県内外の消防本部から、のべ300人に及ぶ消防隊が応援に駆け付け、消火活動にあたりました。
火災発生から約30時間後に鎮火した被災エリア。火元から国道8号方向に、扇状に火災が拡大していった様子が分かります。
一夜明けた本町通り付近。一面の焼け野原が、火災の凄まじさを物語っています。
要因(ジオ(地質学)的要因と大火の関係)
糸魚川では、昔から強い南風が吹くことが知られており、地元では「蓮華おろし」と呼ばれていました。大火が拡大する要因となった蓮華おろしの強い南風には、糸魚川の地形・地質が深く関係しています。
糸魚川には、糸魚川-静岡構造線という、日本列島を東西に分ける大断層が走っています。断層の活動は地面をもろく崩れやすくするため、断層に沿って大きな谷地形ができ、姫川が流れるようになりました。
大火の当日は、日本海に発達した低気圧があり、温暖前線に向かって南風が吹いていました。この南風は、姫川沿いの谷地形を通り糸魚川に吹き下ろします。この強い南風のことを「蓮華おろし」と呼び、大火の原因となりました。
歴史(過去から学び これからに備える)
旧糸魚川町域で3桁の建物が被災した大火は過去13回にのぼり、そのすべてに強い風が影響しています。しかし、死者は驚くほど少なく、これは長い歴史のなかで、地域に大火時の心得が息づいていたことを伺わせます。
日本海に沿う旧街道、特に宿場町として栄えた場所には大火の歴史が必ずといっていいほどあるようです。これは強い西風の影響によるものです。
糸魚川町は古くから加賀街道と松本街道沿いに家が連なり、風も強く昔から大火の多いところでした。大正元(1912)年に糸魚川駅が出来、周辺に家や店舗が増えると、南風の影響を受ける火事も増えました。表では、直近の駅北大火を含めない場合、平均して13年に1回の割合で発生していることがわかります。
町では深夜の災害に備え、夜にご飯を炊いておきました。食料確保の知恵です。何事もなければ、翌朝ご飯をお粥にします。「おないれ」は漬菜を刻んで入れた味噌汁。商家の忙しい朝にも合理的な慣習でした。
横町の秋葉神社と、新鉄の山の井神社(旧名 秋葉神社)は、町の西端、南端の風上に鎮座する、先人たちからのメッセージシンボル。同じく、私たちは街なかの水路や広場が何のための存在か気付く必要があります。
サンゴジュやイチョウなどは葉や幹に水分を多く含み、防火樹の効果があります。かつて街なかには計画的に植えられた樹木が多く見られました。写真は昭和30年代前半の糸魚川駅前のイチョウ並木です。
何度も大火に焼かれてきた本町通りでは何度も雁木が再生されてきました。これが糸魚川の“らしさ”や誇りであると捉えられていたことの証ともいえます。写真は大正時代終わり頃の様子です。
復興(大火を乗り越え 新しいまちへ)
駅北復興まちづくり計画では、「カタイ絆でよみがえる笑顔の街道糸魚川」を目標像に掲げ、街道沿いのまちの歴史や文化等の“糸魚川らしさ”を生かしつつ、大火を二度と繰り返さない災害に強いまちづくりを目指しています。
道路の通行が可能になりましたが、住宅や店舗部分のがれき撤去や建物解体は、年明けの1月初旬から行われました。それまでの間、ボランティアの方々も交えた「思い出の品探し」が行われ、数は少ないながらも消失を免れた品々は、被災された方々の心の支えとなりました。
地上部のがれき撤去、境界確定のための用地測量、建物基礎部の撤去作業をそれぞれ約3か月をかけて進め、再建が可能になった頃です。一面が更地の状態ですが、冒頭の大写真に至る約1年半の短期間で、被災地内で再建を希望される住宅・店舗の再建が概ね完了しました。
本町通りでは、通り沿いの建物を準耐火建築物としたり、無電柱化にしたりすることで防災力の向上を図りつつ、古くから受け継がれてきた雁木のあるまちなみづくりを進めています。
戸建て再建を断念された方が入居する復興市営住宅です。雁木のあるまちなみと調和する木造の準耐火建築物で、地域に開かれた「見守り見守られる住宅」がコンセプトです。
火災の燃え広がりを防ぎ、災害時に一時避難するための防災広場を被災地内8か所に整備しました。平時は市民公園として住民や来街者の集いや憩いの場となります。
未来へ(このままちと ともに生きる)
大火の記憶と教訓を後世に伝えていくとともに、市の中心地としてのにぎわいと活力の創出に向け、市民が一体となって居心地の良い集いたくなる“駅北”の空間づくりを共に考え、話し合い、実践しながら歩みを進めていきます。
大火のあった12月22日には、被災地区の住民がこども達を先頭に「駅北火の用心夜回り隊」を編成。拍子木を鳴らしながら町内を巡回し、防火と大火の記憶伝承を呼びかけます。
大火翌年の12月には、こども消防隊を発足。市内の小学生中・高学年の児童を中心に、定期的に消火や救護、規律行動の訓練を行い、将来の地域防災リーダーを育成しています。
ここ駅北広場(仮設整備時は「にぎわい創出広場」)では、大火を機に地元金融機関等が中心となって「復興マルシェ」を開催。来場者と出店者の笑顔がまちに元気を与えています。
駅北広場は、若者や広場を使って活動してみたいという団体等とのワークショップを通じ、イベントや日常使いのアイデア、施設に関する提案等を形にしています。
被災地周辺にある空き家等の遊休物件を新しい使い方に再生し、エリア全体の価値を高め魅力的な場所にしていく「リノベーションまちづくり」の取組も始まっています。
「欲しい暮らしは自分でつくる」の考えのもと、市民公園では椅子づくりのワークショップも行っています。公園で使うベンチや遊び道具も“作り、使い、育む”ことでまちへの愛着心を醸成していきます。
耐震性防火水槽(200トン)
駅北広場の地下には国内でも最大クラスとなる200トンの耐震性防火水槽があります。大火被災地周辺の木造建物密集地域における火災や地震などで消火栓が使えなくなった際の備えとして、また大火の記憶と教訓を伝えていく役割を担っています。
1.土砂の掘削
周りの土砂が崩れたり、地下水が入ったりしないように鉄板状の杭を周りに打ち込んでから、水槽を埋める穴を掘っていきます。この水槽では、約11メートルの深さまで掘り下げています。
2.基礎の設置
掘り下げた地面の下は、水槽の重さで沈んでいかないように、約20センチの細かく砕いた石の層の上に約40センチの鉄筋入りのコンクリートを平らに敷きつめ、土台となる基礎を作ります。
3.水槽の搬入
水槽は、長さ約27メートル・直径約3メートルあり、4つに分けて運ばれました。一つずつクレーン車で基礎まで吊りおろされた後、溶接でつなぎ合わせています。水槽は鋼鉄製ですが、内側と外側は錆や腐食を防ぐためFRPという素材が塗られており青く見えます。
4.水入れ・埋め戻し
水槽に水を入れているところです。これは、水槽を埋め戻していくときに土砂の密度や地下水により、水槽が浮き上がってこないように水をためて重くするためです。さらに、黒く見えるベルトで基礎と水槽をつなぎとめ、浮き上がりを防いでいます。
アルバムと写真
大火の後に行われた“思い出の品探し”で、がれきの中から見つかりました。焦げてはいても遠い日々の記憶をつなぎとめる大切な家族の宝物です。
かつての大火の遺物
駅北広場整備前の発掘調査で過去の大火の地層から見つかりました。当時、多くのがれきは撤去されずに埋められていたようです。地中に眠っていた大火の記録です。
硬貨と腕時計
アルミニウムで出来ている1円硬貨は、金属の中でも溶けだす温度が低いため熱を受けて曲がっています。時計は文字盤が傷み、止まった時間が読み取れません。
雁木のランプ
本町通りの雁木に取付けられていた街灯です。雁木自体は焼失を免れたにもかかわらず、街灯は火災の熱で溶けてしまいました。
焼けた本
骨董商も営んでいた平安堂旅館では、古美術のほか関係書籍も多くが灰となりました。本品は数少ない焼け残りの本のひとつです。
溶けた酒瓶
日本酒を瓶詰めする前に火災の熱を受けて曲がってしまった、老舗の酒蔵「加賀の井酒造」の四合(720ml)瓶です。
焼けたヒスイ
老舗のそば店「泉家」でお客様をもてなすために、大事に飾られていたヒスイです。大火の熱で、緑色だったヒスイは白く変色し、ひび割れています。
飛び火(木片)
今回の大火で見つかった最大の飛び火(木片)です。被災した建物の屋上で発見され、重さは114グラムあります。小さいものは100メートル以上離れた場所で燃え移り延焼拡大の要因となりました。
刀
安政2(1855)年、糸魚川の刀工 藤原弘繁の作で大火までは市指定文化財。熱と衝撃、劣悪な状況に数日置かれたことで、形状が大きく変わり、錆等の腐食に見舞われています。
柄鏡
青銅製。江戸時代の嫁入り道具と思われ、文様が施されているのは裏面。表面を磨くことで鏡としたものです。火災の熱により反り返りました。
消防ポンプ
台風並みの強風により火災が急速に拡大したため、現場指揮本部をはじめ消防隊は位置を変えながらの活動を強いられ、多くの資機材は撤収が間に合わず、現場に取り残されました。
消火ノズル(管鎗)
強風にあおられた炎が消防隊の身に迫ったため、本来、隊員が手にして活動するこれらの資機材も置いたまま退避せざるを得ない状況も見られました。
吸水管
消防ポンプに水を吸い上げる長さ6メートルのゴム製のホースのうち、金具の部分だけが燃え残りましたが、熱や外部からの圧力で変形しています。
消火栓ハンドル
地下式消火栓から水を出す際に使うハンドルで、本来はアルファベットの「T」の形をしています。火災現場に取り残され、熱で曲がってしまいました。
消防ホース
20メートルあるホースの一部です。駅北大火では、消防署・消防団が保有していた400本以上もの消防ホースが損傷・焼失しました。
消防機関誌
駅北大火は、TVや機関誌など多くのメディアに掲出され、全国からの多くの支援につながりました。
(表紙は当時の消防副署長)