更新日:2024年3月9日

広報紙連載「四季折々の御風さん」

 令和5年度(2023年度)は相馬御風生誕140年の記念イヤーでした。
 糸魚川市では、この好機に、広報いといがわ令和5年1月号から令和6年3月まで、全15回の「四季折々の御風さん」を連載し、顕彰を進めました。

 

(15)土の感触と独座旅心(広報いといがわ 2024年3月10日号掲載)※最終回

  御風さんは春間近の庭の残雪を放っておきました。これは、せっかちに雪かきして、植物や生物に一気の変化を与えるのはよくない、あくまで自然にまかせ、自然に解けていくのがよいという考え方からでした…

 あれだけ降り積もっていた雪が時間をかけてゆっくりじんわり解け、地面が見え、子供たちがソワソワ。
 そして…

 幾月かの永い間深い雪の中に閉ぢ込められてゐた北国の子供等が、久しぶりで黒い大地の面(おもて)を見出(みいだ)した時に歓(よろこ)ぶ有様はまつたく云(い)つて見ようのないものである。
 子供等は(中略)殆(ほと)んど踊り出さんばかりの嬉(うれ)しさうな様子で、土を踏み廻(まわ)る。


 続けて外で縄飛びや凧(たこ)あげを始めます。春の3次元に心と体を遊ばすのです。
 御風さんも心で叫びます。

 おゝ、大地よ。

 そして、足袋(たび)や下駄(げた)を脱ぎ捨てて、足の裏で土を感じたい衝動に駆られます。というか、もうそうしちゃいます。

 たのしみは雪消えはてゝひさしぶり 大地をぢかに踏みありく時

 このような四季折々の体験は、心の豊かさの蓄えになっていきます。
 御風さんの晩年は、特に外出嫌い、ものぐさ、面白い表現で「草木化」…しかし、出不精という消極的行動を、家居静坐(かきょせいざ)の安らかさを楽しむ積極的な行動ととらえ直しています。
 書斎に一人座っていても、御風さんの心の豊かさメーターはマックスに振れており、そして何と言っても雲の子ですから、心は風に乗り空を旅できます。

 思索や読書や執筆に疲れた心は、うららかな空に溶けひろがつて行く。

 自然に抗うことなく随順すること、ふるさとの四季に生きることの有難さ―これらを私たちに示してくれた御風さん。
 その心は、うららかな空にも、現代に生きる私たちの心にもしっかりと溶けている―そんな気がするのです。(終わり)

 

(14)冬の音から春の音へ(広報いといがわ 2024年2月10日号掲載)

 冬、雪に閉ざされる中、御風さんが自宅と周辺で聞いた音にはどんなものがあったのでしょう?
 衣擦れ(きぬずれ)の音、紙にペンを走らせる音、本をめくる音、火鉢の炭のはじける音、湯の沸く音、電線が風を切る音、このあたりは当たり前すぎて聞こえません。
 無音(しんしんとした雪)、風雪や霰(あられ)が窓を叩く音、かすかなラッセル車の汽笛、これらは意識します。なかでも注意深く聞いた音は波の音。まずは普通の波の日の歌です。

 ふか雪にうもれてを聞く波の音 よるはこの世のものとしもなし
※を聞く…わずかに聞く
※この世のものとしもなし…遠い世界、俗世 間を離れたところから聞こえてくるようだ

 次は、大波の日の歌です。その音と振動は、海岸沿いの住人にしか分からない恐怖。ましてや護岸のない時代、住宅まで波が寄せることもあったので、御風さんもさぞ怖い思いをしたのでは…と思いきや、むしろ慣れているので「一向平気」!ということです。

 夜の波のとどろとどろのとどろけば 目とぢてすわる暗きこたつに

 御風さん、目を閉じ昔に思いを馳せます。たまの晴れ間の屋外―いい音が聞こえます。

 わら沓(くつ)をはきてあゆめばここちよく わが足の下に雪は鳴るなり

 あるいは別の日、つららが燦爛(さんらん)とし、御風さんの眼も輝きます。

 木の枝の氷柱(つらら)を折りてたうべつつ うましうましと子らは叫ぶも

―おぉ、子供たちよ、そうだろう、そうだろう。父ちゃんも昔そうやったんだよ!
 子供たちの声が晴れやかになり、屋根雪の解け滴る音が毎日聞こえるようになり、痩せスズメのさえずり、近所や往来の日常会話が耳に届いてきます。
 春がゆっくり近づいてくるのが音の変化で分かります。

 待ち待ちていつしか待たずならむ頃 ほのぼの春はめぐり来らしも

(13)冬のぬくもり 炬燵のまどい(広報いといがわ 2024年1月10日号掲載)

 冬の時期、炬燵(こたつ)でミカンは至福のひと時です。ホットドリンクやアイスクリームもいいですね。
 冬ならではの生活を演出する炬燵。御風さんはまぎれもなく、炬燵愛好家でした。

 みかんの皮むく指さきのほのかなる つめたさはよし夜のこたつに

 御風さん、冬ごもりが大好きです。それは、一家団らんの機会が増える、また雪が雑音を吸収するので、静かな環境で執筆ができるといった理由によります。
 昔の暖房器具は、炭を燃料とした囲炉裏(いろり)、炬燵、火鉢がほとんどであり、御風さんの冬の随筆や短歌にも頻出します。
 そして、炉辺(ろべ 囲炉裏の周り)で焼いて食べたおやつとしては、イモ、クリ、ギンナン、そしてミカン!さらには子どもの頃は渋柿も!(種類によっては焼くと甘くなります)。また、子供たちと炬燵にあたりながら、自分の幼い頃に歌った唱歌を聴かせたこともあったそうです。
 ともかく、家族と会話が弾みやすく、楽しい思い出は炉辺や炬燵周りに関するものです。
 そんな体験は「糸魚川小唄」に表れます。

 雪はふるふる昨日も今日も
 明日も雪かよ 炬燵のまどい
 唄ではげまし話でなだめ
 同じ思いで春を待つ

 ※まどい…円居、団居。まるく集まること。

 妻を亡くし、子が独り立ち、進学して家に一人となった後の冬は、「炬燵にかじりつく」という表現をよく用いています。「読書も執筆も炬燵を机に代えてやつている」とも書いています。
 文筆業はペンを持つ指先が命。ドテラを着こみ、指先を炬燵で温め温め執筆する御風さんの姿が目に浮かぶようです。炬燵は思い出をたっぷり含んだ記憶装置。指だけではなく、心も温められたことでしょう。

相馬御風宅の炬燵イメージ
御風宅に残る炬燵のやぐら
炭を入れた瓦製の行火(あんか)等を熱源にしました

(12)鱈をたらふく(広報いといがわ 2023年12月10日号掲載)

 魚偏に雪と書いてタラ(鱈)。タラのおいしい季節です。かつて糸魚川地方はタラの漁獲量が多く、冬季の貴重なたんぱく源でした。みんなの人気者であり、御風さんももちろん大好物でした。

 当地方には良質なスケトウダラの漁場があり、昔は無尽蔵と言われるほどの漁獲量でした。
 御風さんは、母チヨが小泊の生まれ、乳母が浦本の生まれということで漁村に縁があり、また御風宅が海岸近くにあることもあり、押上・寺町の漁師の生活も間近に見ていました。

 小春日の光ぬくとき砂原に 立ちつつ聞くは不漁の嘆き
 あられふるあしたの海に鱈を釣る 海人(あま)がたつきを思はざらめや
 ※あした…朝
 ※たつき…生計、生活の手段

 海の荒れが原因で漁に出られない、寒風、天候が読めない、漁具は飛ばされ流される、命を落とす可能性が高い冬―。御風さんは漁師とその家族の労をねぎらい、感謝の心を常に持っていました。
 ―御風さん、ある日、良質なタラを手に入れたようで、その喜びが溢れます。

 押上のせり場ゆ買ひて来しといふ けふの此(こ)の鱈のいきのよろしさ
 味噌汁に浮きて漂ふ鱈の肝の とろりと舌にとろくるぞよき

 あつい鱈汁をすすつてたらふく腹をふくらませ、体内をあたゝめ、ごろりと炉ばたに横になつて、そこはかとなく物思ひに耽(ふけ)つてゐる夕食後の一二時(ひとふたとき)、冬でなければ得られない静かな時間だ。

 タラは味噌汁、煮物、鍋に最高。竹輪(ちくわ)や蒲鉾(かまぼこ)などの練り物、ほかに干物、佃煮等で長期保存にも耐えました。淡白な白身に加え、タラコ、シラコ、キモといった内臓も美味。特に御風さんはタラ汁を「大衆的美味の王」と表現しており、しかも酒粕を入れたものがお気に入りだったようです。

 ―もうすぐ年が改まります。

 年こしの酒もりおへてゐろりべに 子等とわが待つ鐘の音かも

(11)畑の野菜と詩のかたち(広報いといがわ 2023年11月10日号掲載)

 御風さんは「歌ごころ」を日々の生活の根底に置こうと努めた短歌道の人です。日本ならではの五七五七七の31文字の詩の形式を愛していました。しかし、そこから離れていた期間がありました。

 御風さんは、その東京時代、口語自由詩運動(話し言葉を用い、自由なリズムで詩を作ろうという運動)の急先鋒でした。要は、詩のなかでも短歌を例に乱暴に言えば「三十一文字などといふものはたたき壊してしまへ、こんなケチ臭い文学の定形式なんかあるから日本の文学はいつまでたつても広い世界を開拓することが出来ないのだ」という論です。
 型にはまらない詩で、魂を表現しようよという考えは世を席巻し、新しい詩が次々と生まれました。
 しかし、御風さんは糸魚川に帰住して再び短歌道に戻ります。ん?矛盾してない?
 いえいえ、御風さんいわく、一連の運動は畑の「すき返し」であり「地ならし」。耕さない、肥料をほどこさない、雑草も処理しない畑で良い大根が採れますか?ということです。
 御風さんは運動前後の短歌の世界は「面目を異にした世界」になったと述懐しています。

 前振りが長くなりましたが、御風宅裏にはお父さんから引き継いだ畑があり、御風さんも畑を耕し、いろんな野菜を育てていました。
 アブラナ、キャベツ、トウモロコシ、アスパラガス、カボチャ、トマト、ナス、キュウリ、ジャガイモ、ネギ、ホウレンソウ、ダイコン…

 ゆでたてのじゃがいも食みてふくれたる 腹を撫(な)でつつふみよむわれは
 大根の千六本を刻む音 くりやにしつつ夕あられ降る
 ※千六本…千切りよりも太めに切ること。
  くりや…台所

 慣れない手で撒いた種でも畑が良ければ自ずと芽が出る(4月号で紹介したエピソード)―詩も同じだよ―と、旨い野菜を食べながら御風さんは思うわけです。

 秋の夜の月の光にてらさるる わが菜園つ まことたふとき


(10)柘榴と山茶花(広報いといがわ 2023年10月10日号掲載)

 御風さんの短歌や随筆を読んでいると、柘榴(ザクロ)や山茶花(サザンカ)がよく出てきます。これらはなぜ御風さんのそばにあったのでしょうか。

 相馬御風宅の前庭には柘榴、山茶花、夾竹桃(キョウチクトウ)、珊瑚樹(サンゴジュ)などが御風さん生前から植えられています。いずれも花や実が赤系統です。この赤と葉の緑とは補色の関係で、視認性、誘目性が高く、美しさが際立ちます。御風さんもそのような色合いを好みました。

 ざくろの実ちさくしてすでにあかてりぬ いまだも青き葉をすきて見

 御風さんの敬慕する良寛さまも、柘榴の実が大好きで、こんな歌を詠んでいます。

 かきてたべ摘みさいてたべ割りてたべ さてその後は口もはなたず
 ※指で掻(か)いて食べ、つまんで食べ、割って食べ、いつまでも口に入れておきたい。

 庭の柘榴の実が熟れて割れると中の実が赤く美しく光沢を放ち、良寛さまと同じく御風さんもうれしくなります。

 昨日今日とみにあらはに見えそめし 門の柘榴の実はゑみわれぬ

 山茶花はどうでしょうか?御風さんは昭和11(1936)年にこう書いています。

 山茶花の咲く頃となつた。この花の咲く頃になると私は、きまつて亡き恩師島村抱月先生をおもひだす。島村先生の最も好きだった花はこの花であつた。

 御風さんは山茶花に、さびしみ、やさしみ、を感じ取っています。これは御風さんが抱月先生に抱いていた印象そのままです。
 抱月先生を身近に感じていたい、そして東京時代に心を潤してくれた愛すべき花を身近に咲かせたい―このような思いで前庭に植えたものなのでしょう。
御風作柘榴図「秋天一碧」イメージ
御風作柘榴図「秋天一碧」
(真青な秋空のこと)

(9)収穫へのまなざし(広報いといがわ 2023年9月10日号掲載)

 令和5年8月は全国的にまとまった雨が降らない日が続き、新潟県内でも渇水で農作物の被害が大きく、深刻な状況となりました。
 自然を相手にするのは本当に大変なことです。今月は秋の収穫期の御風さんを紹介します。

 昔は農業技術や天気予報も未熟、品種の問題もあり、毎年の農作物の収穫が今よりもっともっと大きな心配事、関心事でした。特に米は国民の主食、エネルギー源ですので、人々の思い入れもひとしおです。
 秋風が稲穂の香りを運び、御風さんが目を細めます。思いを「糸魚川小唄」に込めます。

 ヨホイヨホイで盆の夜が更ける
 稲は満作穂に穂が下る
 唄の文句は細谷川で
 鶯の声ほのぼのと


 「穂に穂が下る」「細谷川で鶯(うぐいす)の声ほのぼの」は、この地方で古くから伝わる盆踊唄「ヨーホイ」の歌詞にも見られます。
 盆にウグイス?と疑問がわきます。ほかの地域では春の田植唄にも使われたフレーズですが、秋の歌詞にウグイスをもってきたのは、御風さんが出したなぞなぞですね。

 白馬しまけば里には霰(あられ)
 海は高波能登さえ見えぬ
 柑子蜜柑の色づく頃は
 濡らすまいぞえ稲架の稲

※白馬…白馬岳  しまけば…風巻けば

 糸魚川の沿岸部、押上から横町まで広い砂浜があった時代には、刈穂を干す稲架(はさ)が連なっている光景がありました。せっかく干したのに突然の雨で濡れては苦労も水の泡。農家では天候の急変にも対応できる心と体の準備が出来ていました。
 柑子蜜柑(こうじみかん)は上刈みかんのことで、実が色づく頃には不意の雨が来るから特に注意しようという農家の知恵が表れています。
 御風さん、収穫を有難くうれしく思い、稲架と陽のぬくみを浴び、しみじみと詠みます。

 浜坂(まま)ぎはの稲架にうけたる日をぬくみ 倚(よ)りてを浴びぬそのぬくき日を
 ※「まま」は傾斜地を表す古語が方言化したもの
 ※「を浴びぬ」の「を」は「小」で、わずかに、ささやかにの意味。

収穫を喜ぶ御風さん(右)昭和17年

昭和17(1932)年 稲架を見て豊作を喜ぶ御風さん(右)

 

(8)御風さんの暑さしのぎ(広報いといがわ 2023年8月10日号掲載)

 暑い日が続きます。地球温暖化とは言われるけれど、御風さんが生きていた時代の暑さはどのくらいだったのか、気になりますよね。
 そして当時の避暑法にはどんなものがあったのでしょう…

 8月の暑い日、御風さんは窓を全開にします。腕をまくり、足をあらわにし、大あぐらをかいて机に向かいます。頭がさえ、気持ちが“ひろやか”になると言います。
 すだれ、風鈴にも頼ります。とはいえ、風のない日はどうしようもありません。うちわや扇子もぬるい風。冷たい何かに頼る必要があります。
 冷蔵庫が普及していない時代、当地方には雪室や雪小屋、雪穴と呼ばれる貯雪場が数か所ありました。氷の需用の高まる夏まで雪を保存するための施設です。人々はしたたかで、雪を財産として利用したのです。

 外から売子の「雪や氷、雪や」という声が聞こえてきました。
 時には、御風さんも大きな雪の塊を買い、部屋の中に溶けるままにして置いたそうです。
 この雪室の氷、御風さんが小さい頃は、夏の暑い日に塊(かたまり)を手につかんで、ざくざく音を立てながら食べたといいます。

 にひ雪を手つかみにしてほほばりし かの日はるかなり老いておもふも

 これは晩年に昔を懐かしんで詠んだ冬の歌ですが、御風さん、ワイルドに氷や雪を食べるの好きですね。
 さて、昔はどれくらいの暑さだったかと言えば…今から80年ほど前の、昭和17(1942)年8月の御風さんの随筆には、次のように書かれています。

 今年の夏ほどきびしい暑さはこれまでに殆(ほとん)どなかつたやうな気がした。
 (略)土用に入つてからは、九十度以上の暑い晴天が続いた。


 90度は華氏表記であり、摂氏でいうと32.2℃くらいです。(華氏100度だと37.7℃です。)
 えっ、この程度で厳しい暑さ?などと現代に生きる私たちは思ってしまうところです。

(7)璃色の海、翡翠の海(広報いといがわ 2023年7月10日号掲載)

 7月は御風さんの誕生月です。御風さんの自宅のすぐ裏は日本海。毎日見ないことがなく、特別な感情をもっていたことでしょう。
 帰住したてのある日、御風さんは子供らとともに海に出かけます。子供たちがはしゃぎます。

 ころげよといへば裸の子どもらは 波うちぎはをころがるころがる
 水くゞる子等たふとしも総身に 光放ちて水をいで来も

 子らが故郷の海に抱きしめられ神々しい…そう思える気持ちも有難い。
 求めていた心の持ちようがしっかり得られたことに大満足の御風さんは、作品に思いを表します。
 その一つが、夕方5時のメロディーでおなじみの童謡「夏の雲」(1921年発表)です。
 聴くと気分が弾み、陽が長いこともあって夕方なのに元気が出てきます。

1 るり色の 海のむこうの 大空に
  きょうもわきでた 白い雲
  やわらかそうな 雲の峰
  あの峰こえて 海こえて
  わたしの鳩よ とんでゆけ
2 こみどりの 山のむこうの おおぞらに
  きょうもわきでた 白い雲
  いかめしそうな 雲の城
  あの城こえて 山こえて
  私の鳩よ とんでこい

 瑠璃(るり)色、濃緑(こみどり)色、空色の自然のキャンパスに白い入道雲がそびえ、私の分身の鳩が行き来するというダイナミックさに心が開放される思いです。

 さて注目!海の色を表すのに宝石「瑠璃」が使われています。ここで、あれ?当地が自慢するあの宝石は歌詞に使われなかったの?という疑問もわいてこようというものです。
 安心してください。ご当地ソング「糸魚川小唄」(1936年発表)ではしっかり使われています。

 海は翡翠(ひすい)か 雫は真珠(たま)か
 波にうきうき 南を見れば
 空にゃ銀いろ白馬ケ岳も 笑顔涼しく雪を抱く


 これは糸魚川にヒスイが産出すると推測した御風さんが、いよいよその信ぴょう性が高まってはきたけれども、それを声高に言えないがためのメッセージワードとも解釈されています。そうだとすると、この15年間に何があったのでしょうか。探求心がくすぐられるところです。
 

(6)山は見る専(広報いといがわ 2023年6月10日号掲載)

 山開きのシーズンです。待ちに待ったこの季節の登山には格別の楽しみがありますよね。
 御風さんは山を愛していました。ほかの人とはちょっと違い、眺めて愛するというものでした。
 例えば将棋は指さないけども、もっぱら人が指しているのを見るのが好きだという人を俗に「見る専(せん)」などといいます。御風さんは「山」に関しては見る専でした。
 故郷の山々は、東京から帰住したての御風さんを迎えました。

 をろがめば山はくわんじとえみにけり そのうれしさにまたもをろがむ
 ※をろがむ…拝み見る  くわんじ…莞爾。にっこり笑う様子

 ただ、御風さんは体の線が細く、丈夫ではなかったので、高い山を登ることはありませんでした。
 ところがなぜか、北アルプスの調査研究、登山口の宣伝、登山者への情報提供等を目的とする糸魚川山岳会(昭和6年創立)という組織の初代会長を務めていました。
 御風さんは大まじめに言います。

 「山岳会は山に登るだけが目的であってはならない。一方にそれは望嶽(ぼうがく)会でもあらねばならぬ」

 静かに安らかに山に対面し眺めることで、心が養われる、心の糧を得られるという趣旨です。
 私たちは割と頻繁に旅行者から「海と山あっていいですね」と言われます。皆さんは、この言葉を斜に構えて聞いていませんか?
 ダイナミックな山々を見ることが出来るロケーションは宝物です。贅沢なことです。そして…

 たたなはる山は焼山火打山 蓮華黒姫なべてましろき
 ※たたなはる…寄り合って重なる

 仰ぎ見る山々の雪が解け、川を流れ、田を潤し、おいしい米ができていく…たまりません。御風さんも、その喜びを歌に表しています。

 山にのぼりわが食(は)む飯(いひ)のうまさこそ まことの飯のうまさなるらめ

(5)雲になりたい 大空の歌も100年!(広報いといがわ 2023年5月10日号掲載)

 御風ってどういう意味でしょうか?たまに聞かれます。まず字が目に入ってくるので、「風が好きだったのかな?風を美化する感じで御をつけたのかな?」なんて思われがちです。
 実は、「御風」には次の2つの「そうでありたい」という思いが込められています。

(1)風雲(ふううん)を御(ぎょ)す(風や雲を操る)…世論を大きく動かす存在になりたいという願望
(2)風に御(ぎょ)す(風に乗る)…風に身をまかせ自由に大空を旅し、歌を詠みたいという願望

 御風さんの生涯をみるに、(2)の意味合いが相当に濃いといえます。
 実は、御風さんが高田中学校(現在の高田高校)卒業直後にまとめた自筆歌稿「伊夫伎の狭霧(いぶきのさぎり)」を見てみると、冊子の扉には、「雲の子 御風作」とあります。

雲の子 御風イメージ

 カエルの子はカエルとすれば、雲の子は…雲!ですよね、やっぱり。
 つまり、「御風=風に乗る存在=雲」なのです。

 大そらを静に白き雲はゆく しづかにわれも生くべくありけり

 美山公園の石碑でも有名な短歌ですが、100年前、大正12(2023)年の初夏に作られました。御風さんは39歳。年齢的にも最も脂がのり、バリバリと仕事をし、多忙を極めていた頃の作です。
 前年は親不知勝山トンネルの大雪崩事故、出雲崎良寛堂の建立、西海の水保観音甲種国宝認定に奔走していましたし、日々の大量の執筆、各地への講演活動、文通、良寛研究等々…忙しすぎる毎日を過ごしていました。家では息子が11歳と9歳、娘2歳でまだまだ手がかかります。
 明治44年の大火で自宅が全焼したので、Uターン後は仮家に住んでおり、そろそろちゃんとした家を持ちたいし、お金も必要な状況です。
 雲のように静かに生きたいと思う気持ち、すごくよくわかりますよね!皆さんも忙しい生活のなか、空を見上げ雲を眺めてみませんか?
 

(4)心ざわつく春祭り(広報いといがわ 2023年4月10日号掲載)

 なれぬ手に播(ま)きし種さへををしくも土をもたげぬ来て見よ吾子等(あこら)

 「まさのぶ、あきら、来てみ!父ちゃんのまいた種が芽を出しそうだ!」
 雪を頂ける山並み、眼前に広がる日本海、このロケーションで春に芽吹く小さな生命。これがどういう意味をもっているか、いずれ分かるよ。
 これこれ、子どもたちにはこういう体験をさせてやりたかった!
 大正5(1916)年、家族そろって糸魚川へ帰住してきたばかりの頬っぺたを赤くした父ちゃんの心の声が聞こえてきそうです。
 そういう御風さんも、当然少年時代がありました。色白で痩せ、内気で一人遊びが好きな泣き虫少年。

 でも、春祭りの興奮は別物です。
 非日常の雑踏のなかでのワクワク。喧噪(けんそう)、興奮の天津神社けんか神輿。その後の荘厳(そうごん)な舞楽では、稚児納曽利(ちごなそり)、破魔弓(はまゆみ)等の稚児舞楽の舞手を務めました。
 桜花散る舞台で華やかな衣装に袖をとおし舞う誇らしさと喜び、そしてその前の練習の厳しさ。

 天冠は坊主頭に痛しとて 泣きて叱られきこの拝殿に

 ―あぁ、金属製の冠が坊主頭にチクチク痛いと泣いちゃって、叱られたなぁ。
 あとあれ、祭り独特の見世物(みせもの)小屋。怪しげな呼び込みと看板、おどろおどろしい雰囲気、友だち連中に怯(ひる)んだ姿は見せられない!と、意気込んだけども、あの怖さはずっと忘れられないよ…。

 この宮の祭り日にしてろくろ首の 見世物を見き今も忘れじ

 今も昔も子どものどきどきポイントは変わらないのは面白いですね。

(3)Uターンの3月(広報いといがわ 2023年3月10日号掲載)

  御風さんが故郷糸魚川へUターンするのに選んだ月が3月です。
 大正5(1916)年、32歳、大学進学と仕事で14年間生活した東京に別れを告げました。

  江戸時代が終わって明治時代になり、西洋文化が流れ込むなか、文学をいかに新しくするか、加えて、いかに商業ベース(文章を売るシステム)に乗せるかという動きが生まれ、加速します。
  高等教育機関(大学)で学んだ文士、学校教育で高まる識字率、製紙・活版印刷技術の革新、新聞・雑誌等の出現、読書人口の増加…土壌が広く切り開かれ、書き手のまとまりも出来、群雄が割拠しました。
   当時、文学の最大潮流「自然主義」を進める早稲田大学界隈には、ビッグネーム坪内(つぼうち)逍遥(しょうよう)がいて、その教えを受けた島村抱月(ほうげつ)がNo.2。その二人の門下で若くしてNo.3の地位にいたのが御風さんで、文学評論家として世に一目も二目も置かれ、将来を約束された存在でした。
 だけど!御風さんは、そのような絶大なインフルエンサーの地位を捨て、故郷に帰りました。
 なぜその選択なのかを自己分析、告白した本が『還元録(かんげんろく)』です。ここには、華々しさの陰にある誰にも知られたくない、心の奥の、踏み込めば痛みが走る場所にメスを入れたことが書かれています。そして、虚飾にまみれ、疲れ、自失した状態で、長く深く悩み苦しんだ末に、根源的なものに戻りたいとする気持ちが勝ったのです。
 さてそこで、ふと考えてみると、裏を返せば糸魚川に帰る価値があったということになります。その価値とは、御風さんよりも前の時代から受け継がれてきた風土、歴史、文化、人々の心です。生まれ育った地は、ガッチリと御風さんを受け止めます。
 上京し、名をあげることに価値があるとした世の概念に背いたわけですから、邪推や批判もいっぱいされました。
 しかし!御風さんはもうそんなところに留まっていません。

 だって、3月、弥生でしたから。糸魚川でやりたいこといっぱいありましたから。

(2)春待つ心と幼子へのまなざし(広報いといがわ 2023年2月10日号掲載)

 先月号では、親不知の雪崩災害について書きましたが、その1年後に発表されたのは、童謡「春よ来い」です。

 2023年(令和5年)は童謡「春よ来い」発表から100年になります。

 こんなに歌い継がれてきた色褪せない春待ちソングってほかにありますか?
 大正12(1923)年、児童雑誌「金の鳥」3月号(おそらく2月に発売)に発表されたこの童謡の作詞は御風さん、作曲は弘田龍太郎さんです。文学史、音楽史のなかでは、大正7(1918)年から始まった「赤い鳥童謡運動」という動きのなかでの発表です。
金の鳥表紙
 ざっくりいうと、鈴木三重吉創刊の児童雑誌「赤い鳥」を契機とした、芸術性の高い子供向け音楽作品の創作を推し進める運動で、いくつかの類似雑誌が刊行されました。「金の鳥」もその一つです。
 総じて、高等教育を受けた文人の作詞、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)卒業生の作曲による作品が多いのが特徴です。

 

 ↓初出の楽譜見開きページ

春よ来い楽譜
 ↓初出の歌詞見開きページ 「はよ吹(さ)きたい」は「はよ咲(さ)きたい」の誤植

春よ来い歌詞

 「春よ来い」は、赤と桃を春の胎動色として鮮烈に印象づけます。
 「じょじょ」は“ぞうり”、「おんも」は“おもて=屋外”のことですが、これら幼児語を使う斬新さも評価されています。
 そして、御風さんと他の童謡作家との違いは、やはり良寛さまを心から敬慕し、その生き方に学ぼうと努め得られた児童観ではないでしょうか。
 「幼な児(おさなご)の心は尊い」と御風さんは言います。子どもたちと毬(まり)をつき、凧(たこ)をあげ、かくれんぼをした良寛さま。「春よ来い」の詩は、まるで良寛さまの慈愛に満ち溢れているようです。
 近年では、松任谷由実さんの「春よ、来い」に童謡の一節「春よ来い、早く来い」がバックコーラスで使用されており、その詞が持つ力を再認識させられます。
 雪に閉ざされた長い冬、親不知の雪崩災害、阪神・淡路大震災、東日本大震災…。幾たびも折れる寸前の心を潤してきた童謡「春よ来い」―それが糸魚川の地で誕生したことは市民の誇りです。

 

(1)義憤に駆られた冬(広報いといがわ 2023年1月10日号掲載)

 冬の語源は「増ゆ(ふゆ)」という説があります。あらゆる生命がエネルギーを蓄え増やし、来るべき時に備える期間と考えると、なるほど!と思います。

 御風さんは、冬が大好きでした。食べ物はおいしいし、雪はきれい。雪に閉ざされることで、かえって家族や地域の絆が深まり、人々の心は豊かになるからという理由でした。そう、大好きだったんです。あの事件が起きるまでは…

 親不知(おやしらず)の東端近くにそそり立つ勝山。大正11(1922)年2月3日、その下を通る北陸線(当時)のトンネル西口で、親不知での線路除雪に従事していた作業員を乗せた列車が大雪崩に遭遇。92人の命が奪われ、重傷者もたくさんでました。
 特に、蓮台寺、大和川、能生小泊の青壮年が多く亡くなったのは、農村漁村の男性が冬季農閑期、公共交通維持のための労働力としてあてにされていたからでした。当時は、まだまだ労働災害補償への考え方が未熟であり、当局により示された補償金は少額で、遺族は、子や夫が亡くなった悲しみに加え、未来の収入も断たれることになり、途方に暮れていました。
 当時御風さんは38歳。東京からUターンして6年。糸魚川で文筆業にいそしんでいましたが、事故そのものの悲惨さと、遺族への憐れみから義憤に駆られ、除雪作業員は単なる労働者ではなく、人流、物流を維持するという社会奉仕の名のもとに集まった献身的な人達であると主張。中村又七郎さん(幼馴染で政治家)とともに奔走し、要人にかけあい、結果として補償額は十分なものになったといいます。
 ただ、凄惨な事故だったゆえに、冬は、雪は、怖ろしい…しばらくは、そんな漠然とした思いに地域は覆われていました。
 そのようななか、事故から1年後、あの有名な、日本国中みんなが知っている御風さん作詞の童謡が発表されることになります。