「糸魚川」という河川が無いのに何故このような地名が付いたのか、その疑問にお答えするため、下記のようにまとめてみました。
 伝説レベルでは下記のようなものがあります。

諸説1

 弘法大師(空海)が竹管に糸を巻いて川に投じたところ、たちまち魚となって泳ぎまわった。

諸説2

 対立する軍(どのような軍かは不明)がこの地で挑(いど)みあったので「いどみ川」から転じて「いといがわ」となった。

諸説3

 淀(よどみ)川から転化して「いといがわ」となった。 その他、災害がよくおこるので「厭(いとい)川」から転化した。

 また、最もまことしやかに囁(ささや)かれる説に下記のものがあります。

諸説4 

   糸魚(イトヨ)が市内の河川に多く棲(す)んでいたことから付いた。
 イトヨは下の写真・図のような魚です。背の3本のトゲが特徴です。
 イトヨ1
イトヨイトヨ3
 
 これが旧糸魚川市(昭和29年[1954]6月1日市制施行)の市章となったものですから、いよいよまことしやかな説になっているようです。
 昭和30年1月8日、告示第52号で糸魚川市章は次のように定められました。

本市市章を次のとおり制定する。
 糸魚川市章
旧糸魚川市章 【意匠説明】
名産の糸魚(イトヨ)三尾をもって市民を表わし、密接に連繋するが己の分を守り、他を尊重する意味である。
 よーく見てください。三匹のイトヨが見えてきます。3本の背のトゲが中央でYの字を形作っています。円の外にある突起物は尾びれです(※)。

 実はこの市章は、旧糸魚川町の町章だったのです。初代市長中村又七郎が糸魚川町長時代の大正10年(1921)頃に考案したものです。ちなみに、イトヨは昭和40年代前後から河川の汚染等で市内では全くと言っていいほど見られなくなりました。

(※)まだよく分らないという方のために色分けしてみました。

市章色分け

 次に『糸魚川市史』第1巻(糸魚川市役所 1976)で執筆者の青木重孝が唱えた説があります。

諸説5 

 古代、新羅人が日本に渡り帰化人となり、糸井と名乗り、この地に住み着いたことから付いた。

 青木の説によると、新羅のある集団が日本に渡り、まず、兵庫県の但馬の地を開き糸井造(いといのみやつこ)という姓(かばね)を名乗り、その後、この一族がこの地方に入ってきたことから付いたということです。

 実際、兵庫県のこの地域には糸井村・糸井川(いずれも現在の朝来[あさご]市内)という名前が今に伝わっています。青木は、糸井造の一族は当地方では具体的に姫川(糸魚川市を流れる1級河川)を見下ろすことの出来る地に館を構え、眼下の荘園を管理したとしています。

 この説に基づきますと、糸井造の勢力を象徴する河川である姫川がかつて「糸魚川」と呼ばれていた可能性があるといえます(しかし、史料はありません。推測の範囲です)。

 同じく『糸魚川市史』第1巻(糸魚川市役所 1976)では、古文書の中から地名の出現を探っています。
沼河
沼川
沼川
糸井川
糸井河
いとい川
糸魚川
糸魚川
糸魚河
延元2(1337)年2月
康永4(1345)年2月
正平7(1352)年閏2月
至徳4(1387)年9月
永享4(1432)年9月
寛正6(1465)年7月
永正6(1509)年9月
永正6(1509)年9月
永正7(1510)年6月
禰知盛継状
村山高直軍忠状
村山右京亮軍忠状
市川頼房軍忠状
一之宮梵鐘名
堯恵「善光寺紀行」
村山氏系図
長尾為景書状
上杉定実書状
と例示されています。

 これによると、1387年のあたりを境に地名が変わったように見られますが、「沼川(河)」(ぬなかわ・ぬながわ)はより広域を指す地名、比して糸井川(糸魚川)は狭い地域を指して用いられています。

 また、「糸井」という言葉は本来、糸のように流れる細い川という意味があるようで、姫川のような大きい河川が果してそのように呼ばれたものか疑問ですし、更に、何故「井」が「魚」になったのか、全く不明です。

 上流を姫川、下流を糸井川と呼んだ、あるいは姫川下流の一支流を糸井川と呼んだなどの説もあります。

 以上見てきたように「糸魚川」の地名の起こりには諸説あり、現在最も有力とされている「諸説5」も疑問点が指摘されているという状態です。