木村秋雨の生涯
 俳諧研究家として知られ、名は淑澄(よしずみ)といい、僧名は孝禅(こうぜん)、号を秋雨(しゅうう)といいます。
 木村秋雨が収集した貴重な資料は9,000点以上にのぼりますが、昭和57年に糸魚川市に寄贈され、当館で大切に保存・展示しています。

木村秋雨
木村秋雨(1906~1988)

◇明治39年11月3日、新潟県中頚城郡三郷村下四ツ屋(現上越市)に7人兄弟の長男として生まれました。板倉町有恒学舎(現・県立有恒高校)へ入学しますが、早くから俳諧・和歌・書道など教科以外の芸道に強く惹かれ、良寛にあこがれを持ち、中途退学します。

◇昭和初年の不況時、仕方なく当時長岡警察署の巡査になり5年間勤務しますが、勤務先の宮内村の派出所では、ただの1件の検挙も1人の逮捕もしなかったそうです。

◇その後、秋雨は放浪生活に入ります。そして、歌人會津八一の歌集『南京新唱』に感激した秋雨は、八一に乞うて独身暮らしの東京落合のその居に住み込み、犬馬の労を尽くしました。その後、京都で遊学し多くの文人を歴訪しましたが、昭和7年28歳のときに、南魚沼郡の雲洞庵に入り得度して禅僧「孝禅」となりました。秋雨はこのときのことを「ただなんとなく坊主になってみたかったのでなってみた」と語っています。このころから相馬御風の盟友となり、御風の良寛研究を助け資料の収集に奔走したことが往復の書簡からうかがえます。

◇戦時中は京都で代用教員を務め、戦後帰郷し、高田市(現上越市)文化財保護委員として活躍しました。特に古文書の読解は天才的でした。茶人であり、料理に巧者、何事にも筋目を尊び、風流韻事に関しては博覧強記、孜々として研究生活を続けましたが、10年余りの入院生活の末、昭和63年10月24日に他界しました。享年81歳でした。