※参考文献:『図録郷土糸魚川の人物(糸魚川市教育委員会1999)』、 『青海ふるさと事典(青海町教育委員会 監修 蛭子健治 2004年)』、『雑学の楽しみ(1995年 高橋起美子著)』、『能生町の先覚者たち』より引用、抜粋。50音順、敬称略。


◆相沢 安靖(あいざわ あんせい)[1832~1893] 医者。書・画・篆刻に優れていた。糸魚川の医者、相沢蘭渓(8代相沢玄伯)の子。江戸で多紀流医術を学んだ。安政3年頃、父の隠居所で開業し、人々から「隠寮さん」と呼ばれ、尊敬された。詩・書・画などの文芸は、松山味間を師匠としたといわれ、明治5年、糸魚川小学校の前身が生まれた時、書道の教師に任用されるなど、書道では糸魚川随一と評判だった。


◆青木 重孝(あおき しげたか)[1903~1994]  根知村山口(現糸魚川市山口)に生まれ、旧制糸魚川中学校を卒業。大正10年から青海小学校、上能生小学校、上根知小学校などに勤務。昭和10年に河原田高等女学校(現、佐渡高等学校)に赴任。昭和22年に河原田中学校(現佐和田中学校)初代校長になる。昭和24年、青海町教育委員会に勤務。同37年退職。同33年から27年間、新潟県文化財調査(後、保護)審議委員。「青海町史」や「糸魚川市史」を編纂・執筆する。日本民俗学会名誉会員。


◆伊井 栗斎(いい りっさい)[1876~1955] 糸魚川藩代官。伊井家は代々竹島家と並んで代官を勤めた家である。吏務に優れ、詩文・画・俳句をたしなんだ。明治のはじめ小参事となり、廃藩置県後に柏崎県に仕えた。柏崎県廃止後には大野に住み、杉本竹陽の没後、大野小学校に数年勤めた。俳諧は江戸の春秋庵幹雄の指導を受け、宗匠の称号を許され、栗の屋物外と名乗った。栗斎は漢詩のときの号。


◆石塚 裕康(いしづか ゆうこう)[1894~1957] 糸魚川町新田町(現糸魚川市新鉄)生まれ。大工石塚甚太郎の長男として生まれた。沢田政廣に師事し研鑽した。昭和2年に「極光」で帝展初入選した時は、相馬御風から祝辞が送られている。その後、連続して入選を果たすなど多くの優れた作品を残した。母校糸魚川小学校にある「上路の山姥」は昭和6年の作で帝展3回目の入選作である。晩年は「月友」と号し、埼玉県行田市で俳句や俳画に余生を送り、64歳で没。


◆伊藤 助右衛門(いとう すけえもん)[1887~1967] 鬼舞(現糸魚川鬼舞)の伊藤家は廻船業者として活躍し越後でも指折りの財産家で苗字帯刀も許された郷士であった。代々伊藤家を継ぐものは助右衛門を名乗ることになっており、父助右衛門、母イトの三男に生まれた雄吉が後の助右衛門である。大正2年に結婚し、翌年には長男信太郎(旧能生町教育長)が誕生した。文学を愛し、絵も書く助右衛門は広く美術方面にも関心があり、大正6年、後の陶芸家として名を馳せる人間国宝・富本憲吉(とみもと けんきち)と出会い交流を始めた。富本の作品を多く所蔵しており、また棟方志功(版画家)や浜田庄治(陶芸家)、バーナード・リーチ(イギリスの陶芸家)とも繋がりがある。


◆大月 清五郎(おおつき せいごろう)[1903~1982] 糸魚川町寺町(現糸魚川市寺町)に生まれる。10歳のとき、不慮の事故で、大腿部の手術を受けた。大正7年、県立高田商工学校漆工科を 卒業、翌年、東京美術学校(現、東京芸術大学)に入学し、漆芸科辻村松華、堀井正文の指導・知遇を得て研鑽を続ける。大正15年、父の事業の失敗のため中退し帰郷したが、その後も優れた漆芸作品を作り続けた。


◆小笠原 九一(おがさはら くいち)[1899~1958] 能生谷村物出(現糸魚川市物出)。父の九郎は県議会議員を二期勤め、祖父の九平太は町内の小学校教師勤めるなど、「菅田さん」と呼ばれる地主の長男として生まれる。大正8年に東大法学部政治学科に入学、そのまま東京に入ることを決め家族を連れ、大正10年には東京麻布に住みついた。大正11年、大学卒業時、ときの農商務大臣である高橋是清(たかはしこれきよ)に認められベルリン大学で農政問題の研究をした。後、静岡や東京で起業するも成功せず、戦時中に地元能生町に戻った。昭和22年には県議会議員に、同年に能生谷村長にも当選した。昭和24年に新潟県教育委員長になったため村長を辞するも、大糸線全線開通に尽力し、昭和30年には県議会議長を務めた。


◆小川 長秋(おがわ ながとき)[1840~1884] 糸魚川町新田町(現糸魚川市新鉄)生まれ。平田篤胤の著書に影響され、敬神尊皇の大義を信奉。田村弥平、滋野七郎、銀林綱男らと行き来し、国学や漢学を研究した。慶応3年京都に上り、平田塾の門人となり、志士と交わり、帰郷しては、それを糸魚川の同 志に伝えた。こうして糸魚川の有志は尊皇攘夷、倒幕の集団となっていった。維新後、明治3年、東京府に就職。4年、司法省に転じ、以後、司法の道を歩む。明治11年、仙台裁判所大河原区裁判所長、明治14年検事を拝命。44歳没。


◆小倉 遊亀(おぐら ゆき)[1895~2000] 滋賀県大津市に生まれる。大正9年、横浜捜真女学校教師の頃、日本美術院同人であった安田靫彦画伯に師事した。昭和13年、青海町出身の小倉鐵樹師と結婚、師の教えのもと創作活動を続けた。昭和50年には青海町名誉町民、昭和55年に文化勲章、昭和56年に大津市名誉市民、平成7年に鎌倉市名誉市民を受賞する。


◆片平 傭人(かたひら つねと)[1902~1954] 宮城県仙台市生まれ。18歳の頃、童謡の投稿を始め友人とともに童謡講習会に参加したり、街角では子供達に童謡・童話を聞かせる。19歳のとき、良寛、相馬御風を慕い新潟県糸魚川へ移る。糸魚川では電気化学会社青海工場 や小学校等で働き、余暇になると子供達に童話を語ったり童謡を歌い、影絵を見せたり したことから、相馬御風に「越後のアンデルセン」といわれる。26歳の頃から52歳で没するまで故郷仙台や函館市などで童謡や新聞社で活躍した。糸魚川市根知公民館に童謡碑「青いツララ」が置かれている。


◆木島 藤兵衛(きじま とうべい)[1880~1934] 糸魚川町(現糸魚川市)京屋本店の主人で、郷土史家。俳句・歌に親しみ、天津神社詩歌応答の係を担当したことがある。相馬御風が糸魚川に戻るまで、糸魚川の学術文化の第一人者であった。大正7年、糸魚川町史編纂副委員長(委員長は相馬御風)に任命され、編集・執筆を担当した。糸魚川町史(稿)全5巻は昭和6年に一応の完成をみたが、不況と戦争のためか、頒布するまでには至らなかった。しかし、後の糸魚川市史編纂の際に重要な役割を果たした。


◆北村 四海(きたむら しかい)[1871~1927] 建部喜代松を父に持ち5人兄弟の二男として長野市に生まれる。喜代松は市振村(現糸魚川市市振)の屋号「喜平家」惣領として天保4年(1833)に生まれ、生家は寺社彫刻も手がける宮大工で、善光寺の再建工事を機縁に長野市の北村家へ婿養子に入った。明治40年、東京勧業博覧会に出展した作品を、審査の不公平を理由に会場内で破壊。「霞事件」といわれ、前近代的な美術界に警鐘を鳴らしたとの高い評価を受ける。大正2年には43歳で彫刻協議会審査員を務め、大理石彫刻の第一人者となる。大正9年には帝国美術院美術展委員を務めた。


◆北村 正信(きたむら まさのぶ)[1889~1980] 市振村(現糸魚川市市振)の乕井広吉、ヤエ(北村四海の姉)の三男として生まれる。明治36年、後の養父となる北村四海に呼ばれて上京、翌年に東京谷中の太平洋画界研究所に学ぶ。昭和50年には、青海町民会館の建設にあたり日展出品作の大理石彫刻「みどり」を寄せ、青海町名誉町民を受賞する。


◆玉瑞(ぎょくすい) 西海村大久保(現糸魚川市市野々)の庄屋猪又家の次男として生まれる。通称、羅漢和尚。蓮台寺村(現糸魚川市蓮台寺)の昌禅寺第17世の住職。天保3年、蓮台寺に500体の石仏を作ろうと托鉢を行い、天保13年に羅漢堂とともに完成した。次に、早川谷に四国八十八ケ所の観世音に擬し、奇岩のなかに石仏を配置しようと願い、托鉢で浄財を集め、慶応2年に成就した。ここを巡拝することにより、四国の八十八ケ所を巡礼したと同じご利益を得ることができるとされた。この後、各地の峠や山頂に石仏をつくり、旅する人の安全を祈り、道案内にも役立ったという。


◆銀林 綱男(ぎんばやし つなお)[1844~1905] 糸魚川町(現糸魚川市)の医師銀林玄類の長男として生まれる。富山で外科医の勉強をし、 元治元年、糸魚川で開業。医業の傍ら、田村弥平、小川長秋らと交わった。明治元年、会津征伐に弟悌蔵とともに官軍に従って戦場に出た。その後、維新政府の三条民政局に勤務、翌年、加茂民政局に転じ、新しくできた新潟県に主として聴訟掛(裁判官)として勤務した。9年、東京府に転勤し、内務官僚として東京府に17年間勤務。明治25年、埼玉県知事に抜擢。在職一年で下野し、その後、北越鉄道(直江津-新潟間)の社長になった。墓は糸魚川の新田町共同墓地(現糸魚川市新鉄)にある。


◆倉若 晴生(くらわか はるお)[1912~1982]  糸魚川市本町生まれ。本名貞司。商家で生まれた晴生は幼少の頃から親に買ってもらったハーモニカ(当時1円:大正初期では大金)に熱中し、東京府立科学工業学校時代には教師も呆れるほどでした。後、作曲家江口夜詩のもとで作曲の勉強をし、レコード会社で作曲が採用、「ポリドールレコード専属作曲家」となりました。歌手田端義夫とのコンビでヒット曲を出し昭和14年(1939)の「島の船唄」や昭和21年(1946)の「かえり船」は有名です。作曲は千曲を数えます。70歳没。


◆滋野 七郎(しげの しちろう)[1835~1886] 糸魚川町寺町(現糸魚川市寺町)生まれ。18歳のとき、糸魚川町持明院主となった。持明院は領主松平侯の祈願所で、近郷近在の修験院の頭で、天津神社の祭りにはこの院主が先導しなければ巡行ができないほどの格があった。幕末、田村弥平、小川長秋、銀林綱男等と親交を結び、国学を修め、勤皇の大義を論じた。明治元年、戊辰戦争が起こると家を捨て、方義隊を組織して官軍のために斥侯の任を果たした。のち、神職となり、筑波神社を最初に、天津神社祭祠、弥彦神社宮司 皇典講究所を歴任した。52歳没。墓は弥彦村字神保山にある。


◆杉本 竹陽(すぎもと ちくよう)[1824~1877] 糸魚川町新田町(現糸魚川市新鉄)「常誓寺」の住職。16歳のとき江戸に出て、経詩を学ぶ。また、京都の 九江青根に画法を学び帰郷。明治2年。寺職を弟に譲り、大野村に転居。村の人々は「無毒庵」と呼ばれた留守の隠居所を借り受け仮校舎とし、竹陽を招き子弟を教育した。明治8年、小学校を新築し、再び竹陽を教師に招いたが、翌年に病没。明治17年、子弟たちが、その恩に報いるため、大野神社境内に顕彰碑を建立した。


◆相馬 御風(そうま ぎょふう)[1883~1950] 本名昌治。歌人・詩人・自然主義評論家・良寛研究家。糸魚川町大町(現糸魚川市大町)の社寺建築を業とする旧家に生まれた。早稲田大学英文科在学中に与謝野鉄幹主宰の新詩社に入会し、「明星」の同人となった。やがて脱会、東京純文社を結成し、雑誌「白百合」を創刊した。卒業後は早稲田文学社に入り「早稲田文学」の編集を行った。また、「早稲田詩社」を結成し、「口語自由詩」を提唱するなど当時の文壇で活躍した。大正5年、自己の内面を告白した「還元録」を出版後、糸魚川に戻り、良寛研究や短歌結社「木蔭会」の指導、随筆を中心とした雑誌「野を歩む者」の刊行や、郷土史・民俗の研究など幅広く活躍。特に良寛研究に果たした役割は大きい。また、早稲田大学校歌や「カチューシャの唄」、童謡「春よ来い」を作詞した。


◆相馬 照子(そうま てるこ)[1889~1932] 本名テル。相馬御風の妻。東京市京橋区(現東京都中央区)で、衆議院議員を務めた藤田茂吉の次女として生まれた。日本女子大学に入学したが、明治40年に御風と結婚し退学した。御風の仕事を助け、家庭を守るかたわら、随筆や短歌に励んだ。没後、遺稿は「人間最後の姿」(御風共著)として出版された。


◆高鳥 順作(たかとり じゅんさく)[1868~1958] 能生谷村平(現糸魚川市平)の高鳥半五郎の長男として生まれる。小百姓で生活は苦しかったが勉強に励み、20代前半の頃、土木請負業を志し県内の土木工事に奔走した。明治30年の上越地方の大水害を契機に請負業高鳥組の基盤を築いた。実業家としての地位が固まってきた明治43年には西頚城郡会議員に、大正4年には衆議院議員に、昭和7年には貴族院議員に当選した。大正9年から昭和21年(昭和27年にも町長再選)までは能生町長として上水道の敷設事業を進める。昭和17年、勲2等勲章受章。能生町名誉町民第1号。


◆高野 九蚶(たかの きゅうかん)[江戸中期] 糸魚川の人で著述を出版した最初の人。商家の主人であり、町外れの「水月場」という別荘で俳諧を興行したという。江戸時代、糸魚川で最も優れた俳人として評価されている。俳書「越の名残」(各務支考編1708)には糸魚川の俳人の名が15名あるが、その中のひとり。正徳5年、編著「糸魚川」が京都で出版されたが、これは前年に芭蕉の高弟涼莵が糸魚川を訪れた際の俳句を九蚶が集め、収録した俳諧集である。


◆竹島 荷峰(たけしま かほう)[1823~1879] 糸魚川藩士。竹島穀山の養子。父から家学を受け、武術に長じた。父の職を継ぎ、代官となり、事を処することが精敏であったという。明治維新後大参事となり、公正をもって知られた。


◆竹島 穀山(たけしま こくざん)[1804~1861]  糸魚川藩士。高田の阪田家に生まれたが、竹島家を継いだ。芦野流軍学をはじめ剣槍射御の諸芸に達し、すぐれた詩書画、蹴鞠、点茶、挿花にいたるまで精通した。代官職に38年、晩年には目付役を兼ねた。在職中、真宗の僧の説法が民をまどわし利を得るとこれを禁止した。僧徒は服せず本願寺を通じて江戸の藩邸に抗告したが、穀山は動かなかった。弁難反覆して7年、安政4年、本願寺を屈せさせた。これを「竹島の頭陀征伐」という。


◆田村 弥平(たむら やひら)[1825~1886] 糸魚川町鉄砲町(現糸魚川市新鉄)生まれ。池原弥右衛門を改名。幼少から貧乏に苦しむ傍らで読書に励み、35,6歳から独学で国学の道に入り本居宣長や平田篤胤らを支持する。糸魚川の国体、尊皇攘夷は弥平がその源流となる。戊辰戦争の頃、43歳の弥平は故郷糸魚川を出て下越地方に従軍したが、転じて明治政府でその力を発揮する。のち、弥彦神社宮司に任ぜられこの地で長く弥平の徳を慕われ私塾を起こすなど国学の教授に努めた。62歳没。墓は弥彦村字神保山にある。


◆長 圓立(ちょう えんりゅう)[1835~1885] 梶屋敷村(現糸魚川市梶屋敷)「万徳寺」第16世住持。慶応2年、糸魚川で井伊大道と郷土の人材開発のため「静意塾(せいいじゅく)」を開き、宗乗・余乗・漢籍・詩文を教えた。この塾から多くの優れた人材が輩出されたという。明治5年教部省十等出仕、本山寺務に転じ内事課長となり、権中教正を拝命。幕末に火災焼失した東本願寺の復興再建の総指揮をとったという。明治15年に辞職、同18年に帰郷したが、間もなく没。大正8年、万徳寺境内に記念碑が建てられた。


◆富岳 磯平(とみおか いそへい)[1843~1906] 代々庄屋の家柄である松沢清左衛門の二男として、西海の釜沢村(現糸魚川市釜沢)に生まれる。20歳で回船業・室屋磯兵衛の長女と結婚し養子となる。県議会議員として活躍する一方、明治16年、歌村(現糸魚川市歌)で設立した歌石灰会社社長に就任、明治21年には越後セメントを設立し実業家としての手腕も発揮した。また、明治35年から39年まで青海村村長を歴任するなど、青海村草創期の牽引者として活躍した。


◆中川 直賢(なかがわ なおかた)[1855~1917]  高田藩士の家に生まれる。明治9年新潟師範学校卒業。翌年師範学校三等訓導、のち舎中監事。同11年の天皇北陸巡幸の際、参謀兼工部卿井上馨が、将来の産業発展のため知識人を養成しようと考え、直賢を伴い、工科大学に学ばせた。同13年、国政についての建白書を提出し、井上馨の怒りに触れ、大学中退し、新潟県測量技師となる。その後、糸魚川出身の寺崎至県会議員の要請で、公立小学第9番糸魚川校三等訓導となる。明治20年に高等科西頚城小学校長、同42年12月に糸魚川町長になる。同44年の大火の善後策・市区改正に功績を残した。大正3年、再選。同6年、63歳で没。昭和4年、教え子によって糸魚川小学校校庭に胸像が建てられたが太平洋戦争中の物資不足のおりに供出され、現在の「頌徳」の碑にかわった。


◆中村 中(なかむら あたる)[1821~1918] 金沢藩の藩士として代々前田家に使えた家柄である中村家の長男として金沢に生まれる。金沢日報の主筆でジャーナリストとして健筆を振るう一方、自由党等の政治結社にも関わるなど、民心の指導啓発に貢献していた。39歳の頃、姫川橋上で青海村の斉藤小次郎と出会い、黒姫山と石灰製造の話を聞き事業意欲を持ち始め、明治29年に青海軌道商会を設立。石灰工業近代化の先導的役割を果たし村の発展に寄与した。明治43年には青海村村長を1年歴任した。


◆中村 慶三郎(なかむら けいざぶろう)[1903~1987] 昭和4年に発生した磯部村大洞(旧能生町、現糸魚川市大洞)の山崩れ惨状に驚き、山崩れの研究をはじめる。地滑り学の草分け的存在として、各地を踏査、多くの論文を発表した。後に、県立高知女子大学長となった。全国地滑り対策協議会顧問、地滑り学会名誉会員。相馬御風の木蔭会に属するなど、文芸を趣味とし、晩年には俳句を作った。句集に「丘陵」がある。


◆中村 古鏡(なかむら こきょう)[1886~1947] 糸魚川町新田町(現糸魚川市新鉄)、信濃屋旅館の三男として生まれた。狩野派の寺崎広業を師とし、今村紫紅、安田靫彦・小林古径・森田沙伊等とも親交を結んだという。画風は素直な自然主義的な花鳥・人物画を得意とした。東京白木屋で個展を開いたり、昭和19年、空襲の難を避けて糸魚川に戻ってからも画会を開くことがあった。昭和22年没。


◆中村 又七郎(なかむら またしちろう)[1884~1963] 初代糸魚川市長。糸魚川町(現糸魚川市)に生まれた。相馬御風とは同級生であり、幼馴染。早稲田大学卒業後、高田日報社長、新潟県会議員、西頚城郡水産会長、糸魚川町長などを歴任し、昭和17年に衆議院議員に当選。町長時代の大正11年に親不知で列車が雪崩に遭遇し、死傷者120数名を出した災害には、救援活動や処理に率先して当たった。昭和29年に町村合併があり、初代糸魚川市長に当選、就任した。著作に随筆集「おこぜ随筆」がある。


◆仲谷 新治(なかや しんじ)[1893~1986] 青海町寺地(現糸魚川市寺地)に生まれる。大正7年、東京帝大工学部機械工学科を卒業し(株)新潟鉄工に入社、ディーゼル機関設計を担当。大正9年には日本初の漁船用100馬力ディーゼル機関を設計、以後、日本におけるディーゼル機関の開発や設計のパイオニアとして業績を上げた。昭和10年には東洋初の流線形三輌編成急行列車用500馬力軽量高速ディーゼル機関、昭和12年には世界初のディーゼル捕鯨船用900馬力機関を設計し、昭和18年には工学博士、取締役蒲田工場長となる。昭和36年には紫綬褒章、昭和41年には勲4等旭日小綬章を受賞する。


◆牧江 靖斎(まきえ せいさい)[1816~1868] 良寛の親友阿部定珍の九男で、糸魚川の牧江家を継いだ。牧江家は、造り酒屋泉屋を営み、銘酒「玉ノ井」を醸造販売していた。藍沢南城の三余塾に学び、詩文和歌に親しみ、吟詠をした。15歳の時、良寛が没したが、靖斎は良寛の書を多数保存するとともに、良寛のつくった漢詩や和歌を整理し、後世に残した。良寛を芸術上の師、人生の指導者として深い尊敬と愛情を捧げたという。


◆牧江 冥斎(まきえ めいさい)[1844~1866] 糸魚川の酒造家、牧江靖斎の子。兄は文之丞。兄弟とともに父の学んだ三余塾に入塾。詩文の才は父以上だといわれた。銀林綱男と親交があり、ともに尊皇攘夷論者で志士と交わったが、生まれつき多病で父より早く亡くなった。著書に「冥々斎詩文集」がある兄の文之丞は酒屋を継ぎ、大野・上刈・寺島・水﨑・横町の総戸長に任ぜられるなど地方自治に大きな足跡を残した。


◆松倉 米吉(まつくら よねきち)[1895~1919] 貧窮の生活の中、病を得ながらも優れた歌を残した夭逝の歌人。糸魚川町横町(現糸魚川市横町)の水車業、松倉要吉の次男として生まれる。幼くして父を亡くし、母とともに東京に出て働く。勤務先の工場で短歌をつくりはじめ、回覧雑誌「青年文壇」を刊行する。大正2年、アララギに入会し、古泉千樫の門に入る。大正5年肺を病み、大正8年25歳で没。昭和50年、松倉米吉顕彰の会によって、糸魚川市民会館の庭に歌碑が建てられた。


◆松山 琴谷(まつやま きんこく)[江戸~?] 糸魚川の商家で町年寄りの松山濮水の長男として生まれた。少年時代に江戸の詩人安達清河や高田の学者・詩人である村松蘆渓に学んだ。その後、京都で、漢学、詩を学び、糸魚川に戻ると事業と政治の傍ら文芸・絵画をよくした。文化11年、父に代わって町年寄となる。 文政2年、郡代黒川九郎治やその周辺の人物が民衆の反感をかい、「黒川騒動」と呼ばれる打毀しを受け、その対象となった。この後のことは一切不明である。


◆松山 味間(まつやま みかん)[江戸~1876] 父琴谷が黒川騒動に巻き込まれ、家が打ち壊され、叔父のもとに養子に出される。やがて京都で、詩人・画家・書家の貫名海屋の指導を受けた。詩を中心に習い、多くの作品を残した。糸魚川に帰ってから、詩作を続けていたが、後、詩を捨て絵画と書道にいそしんだ。絵は山水が得意で、書道の法は山水画の基礎であるというのが持論だったという。墓は直指院墓地にある。


◆山崎 甚一郎(やまざき じんいちろう)[1883~1958] 大和川村(現糸魚川市大和川)に生まれる。木浦小学校、下早川小学校、青海小学校などに勤務した後、大和川村会議員、村長を務めた。この間、昭和5年に刊行した「西頚城郡史」の資料収集・編纂に尽力した。昭和16年に刊行した「西頚城年中行事」(西頚城郡郷土研究会)の編纂にあたった。俳句や歌をつくり、御風とも交友があった。