ヒスイって何?

ヒスイ(翡翠)は宝石の一種で、特に東洋で人気の高い宝石です。
古くから日本で広く長い間にわたって利用された考古学的に重要であり、地質学的にも日本のような沈み込み帯でのみできる『日本ならでは』の石なので、2016年9月24日に日本鉱物科学会が『国石』に選定しました。
ヒスイが一部のエリアが天然記念物に指定されるなど、大事に保全されて来ているおかげで、ヒスイは今でも野外で見ることができ、将来の人たちも野外で見ることが保障されていることも国石としてふさわしいと評価されました。

ヒスイ写真

日本のヒスイの産地

 糸魚川および糸魚川周辺地域(朝日町・小谷村・白馬村)が最大の産地です。

 このほか、鳥取県若桜(わかさ)町、兵庫県養父市大屋(おおや)、岡山県新見市大佐(おおさ)、長崎県長崎市(三重・琴海)、北海道旭川市・幌加内町、群馬県下仁田町、埼玉県寄居町、静岡県浜松市引佐、高知県高知市、熊本県八代市からヒスイが発見されます。

 宝石になるようなきれいなものが多産するのは糸魚川ですが、若桜からはラベンダーヒスイ、長崎市琴海からは灰緑色のヒスイを産し、宝石にはならないまでも、なかなかきれいなものがあります。

世界のヒスイの産地

 ミャンマー、ロシア、カザフスタン、アメリカ、グアテマラ、ドミニカ、インドネシア、イタリアなど

日本でヒスイの利用

 約5,000年前の縄文時代中期に糸魚川で縄文人がヒスイの加工を始めました。これは世界最古のヒスイと人間の関わり(ヒスイ文化)です。

 その後、弥生時代・古墳時代を通じてヒスイは非常に珍重されましたが、奈良時代以降は全く利用されなくなってしまいました。そのため、糸魚川でヒスイが採れることも忘れ去られ、日本にはヒスイの産地はなく、遺跡から出るヒスイは大陸から持ち込まれたものと昭和初期まで考えられていました。

ヒスイの発見

 昭和13年(1938) 、夏前のこと。糸魚川の偉人・相馬御風が知人の鎌上竹雄さんに、昔、糸魚川地方を治めていた奴奈川姫がヒスイの勾玉をつけていたので、もしかするとこの地方にヒスイがあるのかもしれないという話をしたそうです。

 鎌上さんは親戚の小滝村(現在の糸魚川市小滝)に住む伊藤栄蔵さん にその話を伝え、伊藤さんは地元の川を探してみることにしました。

 812日、伊藤さんの住む小滝を流れる小滝川に注ぐ土倉沢の滝壷で緑色のきれいない石を発見しました。

 昭和14年(19396月、この 緑の石は、鎌上さんの娘さんが勤務していた糸魚川病院の院長だった小林総一郎院長を通じて、院長の親類の東北大学理学部岩石鉱物鉱床学教室の河野義礼先生へ送られました。

 河野先生が神津俶祐教授の所有していたビルマ(ミャンマー)産のヒスイと偏光顕微鏡や化学分析で比較した結果、小滝川で採れた緑色の岩石はヒスイであることが科学的に証明されました。

 昭和14年(19397月、河野義礼先生による現地調査によって、小滝川の河原にヒスイの岩塊が多数あることが確認され、この年の11月に岩石砿物砿床学という 東北大学が中心となって発行していた学術雑誌に論文が掲載されました。

ヒスイの再発見の謎

 昭和13年(1938)当時、日本にはヒスイの産地がないとされていました。考古学の世界では、遺跡から出土するヒスイがいったいどこから来たものかということが、大きな問題となっていました。

 相馬御風は考古学に詳しく、八幡一郎など高名な考古学者との交流もあり、日本にヒスイの産地が知られていないことを知っていたはずです。しかし、不思議なことに御風は伊藤栄蔵さんが小滝川でヒスイを発見したことを知人の考古学者に伝えていないのです。

 さらに御風は年に4から6号のペースで個人雑誌「野を歩む者」を発行しており、巻末の身辺雑記には身の回りに起きたこと、訪ねてきた知人のことなど、詳しく書いているのですが、その身辺雑記にも小滝川でヒスイが発見されたことや、東北大学の河野義礼先生がヒスイの調査に来たことなどが書かれていません。

 御風は亡くなる昭和25年(1950)まで糸魚川で発見されたヒスイのことをまったく触れていません。

 どうして御風はヒスイについて沈黙を続けたのでしょうか。御風の沈黙の理由として以下のようなものが考えられます。

1)戦争中だったから
ヒスイが小滝川で発見された昭和13(1938)には、日本と中国の戦争が始まっていました。このような時期にヒスイの発見を発表してしまうと、きちんとした保護ができないので、御風はヒスイ発見のことを知らせなかったという考えです。
しかし、終戦後も御風はヒスイのことを何も語っていないのが謎として残ります。

2)ヒスイを戦争利用されたくなかったから
戦時中、多数の天然記念物が指定されています。これは保護よりも、国威発揚を意図したものだそうです。ヒスイ発見を公表し、天然記念物になれば戦争推進に利用されるので、あえて沈黙したのだとするものです。
しかし、御風の個人雑誌の記述には戦争礼賛が多数見られ、約80曲も作詞した国民歌の曲名には「一億進軍」、「皇軍凱旋」、「神国顕現」、「銃後の乙女」など戦争推進のためのものが多く見受けられるのです。

3)体力が衰えていたから
御風は大腸カタル(1944)、敗血症(1945)、左眼失明(1946)、体調不良で寝たきりに近い状態(19471950)というように1950年に亡くなる直前は、大きな病気に頻繁にかかっています。この体力的な衰えがヒスイのことを世に紹介できなかった理由ではないかいという考えです。
しかし、御風の著作の数を調べてみると、19421950年の間に15冊の本を刊行し、個人雑誌「野を歩む者」も1950年まで発刊しており、病弱だったとは言え、執筆の意欲はあったことが明らかです。
また、ヒスイが発見された以後の主な来客は、北大路魯山人(1938)、小川未明(1940)、新潟県副知事・前田多門(1944)、会津八一(1945)があり、ヒスイのことを話すことは十分にできたはずなのです。会わなくても手紙などで知人の考古学者に伝えることもできたはずです。
それをなぜしなかったのか、御風の沈黙はヒスイ再発見にまつわる大きな謎となっています。

ヒスイの色

 緑色が最も有名ですが、それ以外に白・淡紫・青・黒・黄・橙・赤橙などの色があります。日本では橙~赤橙色のヒスイは発見されていません。
以前、糸魚川では『ピンクヒスイ』と呼ばれる石がありました。これはヒスイではなく、桃色をした単斜灰れん石(桃れん石)を含むロディン岩です。

ヒスイの主成分

 ヒスイに含まれる元素の主なものは、ケイ素、酸素、アルミニウム、ナトリウムです。他にマグネシウム、カルシウム、鉄、チタンなどが含まれることがあります。

ヒスイを構成する鉱物

 ヒスイは、ヒスイ輝石からできているというのが定説でしたが、緑色の部分にはオンファス輝石という鉱物があることがわかってきました。

 また、淡紫色のラベンダーヒスイはチタンを含むヒスイ輝石、青色のヒスイには、チタンを含むオンファス輝石、黒色のヒスイには石墨が含まれており、それぞれ色の原因になっています。

2種類のヒスイ 硬玉と軟玉

 これまで多くの教科書で、ヒスイ(jadeジェイド)は、硬玉(jadeiteジェイダイト)と軟玉(nephriteネフライト)の2種に分けることができると書いてありました。
普通、宝石店で販売されているヒスイは硬玉の方で、価格的には硬玉の方が高価です。宝石店に行って「ヒスイを見せて下さい」と頼んだとします。店員さんは「硬玉と軟玉のどちらにしましょうか?」などとは言いません。このようにヒスイと言えば普通は硬玉のことを意味しています。

 実は硬玉という呼び方はほとんど死語になっており、多くの分野では単にヒスイと呼んでいます。硬玉という用語をいまだに使っているのは考古学の世界ぐらいです。一方、軟玉(ネフライト)の方は宝石や考古の分野など広く使われています。

 日本では太古の昔からヒスイ輝石からできている硬玉と、角閃石(透閃石、透緑閃石)からできている軟玉をきちんと区別していましたが、欧米はそうではありませんでした。

 明治時代に欧米の科学が日本に輸入され、地質学の近代化か進められたとき、硬玉と軟玉の区別があいまいだった欧米の見方が導入されてしまったのです。欧米では硬玉と軟玉の混同がいまだに見られ、場合によっては蛇紋岩すらもヒスイ(Jade)というラベルがつけられていることがあるぐらいです。緑色をした緻密な石はみんな"Jade"になってしまうのは困ったことです。

フォッサマグナミュージアムでは、

大部分がヒスイ輝石やオンファス輝石などからなるもの 

  → ヒスイ、ヒスイ輝石岩、オンファス輝石含有ヒスイ輝石岩、ヒスイ輝石含有オンファス輝石岩

大部分が透閃石~透緑閃石からなり、緻密なもの

  → 軟玉(ネフライト)、透閃石岩、透緑閃石岩

と呼ぶことにし、硬玉という用語は使わないことにしています。